「車両」10年前のブログから

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10年前の2008年、80歳になった父に文章を書いてもらいそれを私が入力してブログにアップするということを少しだけやっていました。
今読んでみると結構新鮮に感じられるので再度ここで公開します。

「車両」

昭和30年代初期、看板屋にとってなくてはならない物が横付けでした。エンジンで動く単車の横に一輪の車輪を取り付けたものを側車といい、同じ物を自転車に付けたのを横付けといいました。この横付けは、看板取付けの際には絶対必要な軽車両であり、そのタイヤは普通の自転車よりも随分と太く、かなりの重量物も載せる事が出来ました。看板、ハシゴ、垂木等、看板取付時に必要な諸道具をもれなく載せる事が出来ました。大変便利なものでありますが、運転するのは容易ではなく、初めて乗ってから慣れるまでには、1週間程度はかかりました。
大きな看板を積むと右側は視界ゼロとなり、必ず随伴の自転車が右側の注意を横付けの自転車に乗る者に対して行うというのが安全運行の原則でした。
大阪福島より、天王寺駅前まで、ラジオ放送局の青空会議用立看板を持っていくことがたびたびありました。立看板の寸法は3.6×1.8メートル。谷町筋からの登り坂は、横付けの後ろより一人が押すか、または自転車をロープで繋いで引っ張るかのどちらかでした。昔からこの上六坂には、「押し屋」「引張り屋」というこの坂ならではの商売がありました。

私が勤めていた看板屋(アドマン社)に初めてトラックが導入されたのは、昭和31年でした。俗に言うオート三輪で2トン車です。このオート三輪というものは、四輪車と比べると安定度は極端に悪いものでした。ハンドルは運転席の中央部分についており、運転手はその前に座って両手を左右いっぱいに開いてこれを持って運転したため、同乗者は横にある小さな補助席に座るしかありません。足元は、チェンジレバーの動作で穴が開いており路面が見えました。乗降口はシートで作られていたので、夏はまだよかったのですが、冬場は今と違って暖房もなく、大変寒いものでした。
当時は勿論名神高速も市内の環状線もありません。サントリー、トリスウヰスキーの置看板搬入の為、頻繁に往復していた大阪京都間は、片道が一時間半は掛かりました。
昭和20年代の前半は、大阪市内の運送屋は、馬力が主で、馬子は馬(体重がだいたい500キロ)を手綱で操り、後ろの台に馬の体重に匹敵する重量の荷物を積んだものです。
馬子は社名入りの半被姿をしており、常に馬用食料を載せていました。往来安全の為に、空車の場合でも馬子は荷台に乗って手綱を持つことは禁じられておりました。
酷使に耐え兼ねて国道上で倒れている馬をよく見たものでしたが、馬は一度倒れると、自力で起き上がるのは殆んど不可能であり、倒れた馬を起こすのには、十人位の人手に加え、丸太等も必要であったので、それは大変な労作業でした。
戦争中かの世界に勇名を轟かせた日本海軍の零式戦闘機も、試作機は分解され、こういった馬車で航空会社より海軍基地に深夜運ばれたとのことです。
国道2号線は、野田阪神より神戸三宮まで、路面電車である阪神国道線が走っていました。雨の日、路面の軌道(レール)で前輪がスリップして、淀川大橋より水面に落ちる三輪トラックが後を絶たず、運良く電話線に引っ掛かって一命をとり止めた幸運者もいました。

(2008年3月11日・12日公開)

随分昔の話のような気がしますが、これが昭和30年代頃の大阪の看板屋なのでしょう。
私はやっぱり町中で馬を見たことがありませんでした。