「電飾看板」10年前のブログから

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『車両』10年前のブログから」「『鉄板看板』10年前のブログから」に続き、このページでも10年前のブログから引用します。

「電飾看板」

現在、蛍光灯の入った電飾看板の広告面の素材は、アクリル板が主流です。昭和30年代初期では、広告面の板は全て硝子で、色は透明、厚さは1~2ミリ程度のものが一般に使用されていました。
電飾看板の文字を書く際、現在と最も違うところは、文字を全て裏から書いたことです。硝子が透明である為、裏からまず鏡文字で字を書き、乾いた後に白い塗料を塗布しました。こうすることによって今の乳板(半透明のアクリル板)のような仕上がりとなったのです。
黒色の文字の場合は、原稿を貼り付けて裏から鏡文字で書いていくだけでしたが、青や赤の色では、塗料の筆跡がはっきりと残るので、次のような工程を経て製作しておりました。
文字原稿に「ふのり」を付けて硝子に貼り、乾いた後に文字の部分をカミソリで切り抜く。古綿を日本タオルで包みそれにペンキを付けたもので、切り抜いた文字の上を叩く。この作業をタンポ叩きといいました。叩き終り原稿を外すと文字の部分だけが残るので、それを乾燥させた後、さらに上から白ペンキでタンポ叩きして完成です。
硝子は縦にすると強いが、横(平面)に置くと非常に弱く割れやすいものです。現在でも硝子屋はトラックで搬送する場合、必ず硝子を立てて運びます。
戦後ネオンが大流行した時代、硝子で屋外広告すると物が当たって落下する危険を考えて、ピット文字(ブリキ)で、中にネオン管を入れて看板にしたように思います。

昭和30年代初期から40年代にかけて国鉄の駅名案内板は全て硝子でした。台風の時にそのままにしていると破損する恐れがある為、接近の予報が出ると同時に、西は明石、東は京都まで、駅名案内板を降ろす作業をアドマン社では行っていました。台風通過後の取付けも行います。スポンサーは武田薬品のパンビタンでした。
当時、コンクリート壁に看板を取付けるときに一番困ったのが、壁に穴を明ける道具がないことでした。最もよく使ったのはジャンピングというものを使用する方法です。穴に入れるプラグと同径のジャンピングを左手に持ち、右手にハンマーを握って、ジャンピングを左に廻しながら、深さに応じて穴を明けます。大変な労力を要する作業でした。左手は、自分が打ち下ろすハンマーの当たり損ねを何遍も受けて腫上がるなどしょっちゅうです。(中略)
パンビタンの広告は、薬局にも関西で多く取付けられ、古くなった看板(硝子)を引取り再生する作業がありましたが、これは最も困難なものの一つで、硝子を塩酸で洗い落とすものの、なかなかに落ち辛く、また古い硝子は割れやすく、1~2割程度は確実に割れました。

(2008年3月14日・17日公開)

「現在、蛍光灯の入った電飾看板の広告面の素材は、アクリル板が主流です」と父は書いています。2018年の現在も確かに蛍光灯の電飾看板の広告面の素材はアクリル板が主流です。
しかし最近では蛍光灯ではなくLEDの内照式が多くなってきていることも事実であり、この場合はアクリル板ではなくFFシートが採用されるケースがより多いのではないのかという印象を持っています。
それにしても昔の電飾看板は製作の工程が結構大変だったみたいですね。