外来語についての話です。
「コケティッシュ」という言葉があります。
本来の意味とは違う使われ方が広まり、誤用のほうが一般的になっている、と言われることの多い言葉です。
コケティッシュ【coquettish】「なまめかしい」「あだっぽい」「男の気をひこうとする」の意。「―な女」
新村出編『広辞苑 第三版』岩波書店 から引用
この英語の形容詞 coquettish を初めて意識したのは、1979年12月でした。夕方の再放送で刑事ドラマ『太陽にほえろ!』を観ていたところ、セリフの中に出てきたのが聞きなれない「コケティッシュ」という言葉。
正しい使い方だったのかどうかを確かめたくなり、ごく最近になって動画を探して確認しました。
該当するのは『太陽にほえろ!』第232話「新しき友」。本放送は1976年で、今からちょうど50年前になります。
事件関係者の女性が働く「コーヒー&スナック」の店で聞き込みをした島刑事が藤堂係長にその印象を報告する場面。
藤堂「無邪気?」
島「ええ。ていうか、コケティッシュというか……あの調子でやられたら、男はみんな自分に気があるんじゃないかって錯覚してしまうと思うんですよ」
藤堂「よくいるよな、そういう女」
島「ええ。悪気はないんでしょうけど、来る客来る客、みんな恋人みたいに接するんですから」『太陽にほえろ!』第232話「新しき友」から引用
このやり取りを見る限り、「コケティッシュ」は本来の意味にかなり忠実に使われています。
ただし、当時この言葉を聞いて、即座に意味を理解できた人がどれほどいたかとなると、少し疑問が残ります。本放送時も、3年後の再放送時も、多くの視聴者にとっては「何となく雰囲気で分かる言葉」だったのではないでしょうか。
生成AI(ChatGPT)にまとめを依頼したところ、以下のような回答がありました。内容がすべて正しいとは限りませんのでご注意を。
コケティッシュという振る舞い
「コケティッシュ」という言葉は、日本語の中ではやや居場所の定まらない語の一つです。
意味が分かりにくい、誤用されている、といった説明が先に立ち、日常語として自然に使われることはあまりありません。しかし、もともとの語である coquet / coquette(フランス語)や coquettish(英語)が、実際にはどのように使われているのかを見ていくと、日本語で抱かれがちな印象とはかなり異なることが分かります。
フランス語において coquette は、特別な文学語や古風な表現ではなく、人の振る舞いや話し方、身だしなみを評する際に、現在も自然に用いられています。そこに含まれるのは、相手を操作しようとする意図や、露骨な誘惑ではありません。会話の中に含まれる遊びや、相手との距離感を心得た応対、場の空気を和ませる態度といった、社会的なふるまいを指しています。
同様の傾向は、英語圏でも見られます。
英語の coquettish も、必ずしも否定的な言葉ではなく、どこか愛嬌のある態度や、相手の注意を引くような話し方を表す際に使われます。そこには、悪意や計算を前提としない、対人関係の中での身振りや雰囲気が含まれています。重要なのは、フランス語でも英語でも、この言葉が「性格」や「人格」を断罪するために使われることは少ない、という点です。
それはむしろ、その人が場の中でどのように振る舞っているか、どのように他者と関係を結んでいるかを示す、状況依存的な評価に近いものです。この点を踏まえると、日本の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』に登場する「コケティッシュ」という用法は、実はかなり的確だったように思えます。
悪意はなく、誰に対しても愛想がよく、その結果として相手が好意を誤解してしまう。本人は特別な意識を持っているわけではない。そうした人物像は、フランス語や英語における coquette / coquettish の感覚とよく重なります。それにもかかわらず、日本語の「コケティッシュ」は広く定着することはありませんでした。
その理由は、単に言葉の意味が難しかったからではないでしょう。フランス語圏や英語圏では、会話の中に含まれる機知や含み、相手を心地よくさせる言い回しが、社会的能力の一部として共有されています。一方、日本語の会話文化では、誤解を生みやすい態度や含みのある表現は、慎重に避けられる傾向があります。
そのため、「コケティッシュ」という言葉は、日本語の中では意味の前提が十分に共有されないまま、やや気取った外来語として宙に浮いてしまったのかもしれません。
言葉は、それが使われる文化や人間関係の中で意味を持ちます。
辞書に書かれている定義よりも、どのような場面で、どのような態度と結びついて使われてきたかが、言葉の居心地を決めます。「コケティッシュ」という言葉が日本語の中で落ち着かない印象を持たれてきたのは、語そのものの問題というよりも、それが前提としている対人感覚や社交の作法が、十分に共有されてこなかったからではないでしょうか。
そう考えると、この言葉の行き場のなさは、外来語の誤用というよりも、文化の差異を静かに映し出す一つの例のように思えます。