ヘンリー・ミラー『南回帰線』

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文庫本に書かれていた名言に関する話です。

ヘンリー・ミラー『南回帰線』に、こういう名言があります。

「いまぼくがひたすら望んでいることは―存在すること(to be)なのだ。どうか忘れないでほしいが、この不定詞は中国語では<他動詞>なんだよ」

この名言は、寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫)に収録されていて、個人的にとても好みなのです。

角川文庫『ポケットに名言を』(寺山修司)表紙

原文(英語)がどうなっているのか興味を持ったのでちょっと調べてみたところ、ネット検索で出てきたのはこれです。

Now I just want— to be. Remember, I beg you, that this infinitive is “transitive” in Chinese.

この文章、実は『南回帰線』(Tropic of Capricorn)ではなく、Henry Miller on Writingという書物に書いてあり、『南回帰線』とは別ものみたいに思えます。

『ポケットに名言を』に収録されていたので私はこの名言を知ったわけですが、同じようにこの文を知っている日本人の多くも、この『ポケットに名言を』か、あるいはその孫引きで知ったのではないかなと想像します。

で、寺山修司が引用した当時の『南回帰線』には入っていたのかも知れないので、実際に本を図書館で借りて読んでみました(大久保康雄訳)。

最初に解説を見てみると、冒頭のあたりで問題の箇所を発見出来ました。
寺山修司が『ポケットに名言を』で引用したのはきっとここからなのだな、と。

ヘンリー・ミラー『南回帰線』大久保康雄訳「解説 飛田茂雄 1 ヘンリー・ミラーの文学」から一部引用します。

ミラーの芸術はミラーの人生を出しぬいてはいない。彼にとって人と作品とはひとつのものであり、人生や芸術の一方が他方に奉仕するものではない。ロレンス・ダールに宛てた手紙のなかで彼が、「いまぼくがひたすら望んでいることは―存在すること(to be)なのだ。どうか忘れないでほしいが、この不定詞は中国語では<他動詞>なんだよ」と言っているのも、人生と芸術との即一の境地をひらこうとする態度のあらわれであろう。ここにいたるまでのミラーは、「もっぱら書くこと、もっと正確にいえばもっぱら作家になることを念頭においてきた」と自分ではいうのだが、彼が文学修業をはじめた当初から、存在と行為と発言との一致という理想を追求してきたことは明らかである。

もともとは「ロレンス・ダールに宛てた手紙のなか」に書いてあった文章なのでした。

ということで、「いまぼくが~中国語では<他動詞>なんだよ」の言葉は、ヘンリー・ミラー『南回帰線』の本文にはないけれども、大久保康雄訳の日本語版(の解説には入っていました。

そして、本文をちょこちょこっと読んでみるとなかなか面白そうだったので、長いけれども全部読んでみることにしました。で、上記to beと大いに関係がありそうな箇所があったので。

そして、生気充溢したときのグローヴァーは、ひとつの声となった。その声は奔流となって、あらゆる死者を渾沌のなかに押しやり、その渾沌はまた世界の口となり、その口のまんなかには動詞 to be(ある)が存在した。太初〔はじめ〕に言〔ことば〕ありき、言〔ことば〕は神〔かみ〕と偕〔とも〕にあり、言〔ことば〕は神〔かみ〕なりき。つまり神は、存在するものすべてであるところの、この奇妙な、小さい不定詞にほかならなかったのである。―それで充分ではないか。さよう、グローヴァーにとっては充分すぎるものであった。彼にとって、それは一切万有であった。この動詞から出発する以上、どの道をたどろうが変わりはないはずである。この動詞から離れることは、中心からそれること、むなしいバベルの塔をうち建てることであった。おそらく神は、グローヴァー・ウォトラスを、この中心に、この動詞にしばりつけようために、わざと彼を不具にしたのであろう。
(〔 〕内はルビ。「動詞 to be」以外の「動詞」3箇所に傍点、原文はVerb)

ネット上を見て回ってもこのことーー「いまぼくがひたすら望んでいることは―存在すること(to be)なのだ。どうか忘れないでほしいが、この不定詞は中国語では<他動詞>なんだよ」という文が、ヘンリー・ミラー『南回帰線』にはないーーを書いている人がいないようなので、私が書いてしまいました。

また、看板屋の書いたことを鵜吞みにするのではなく、「こう書いてあるけどこの人の勘違いかも」と、実際に『南回帰線』にあたってみるのもいいかも知れません。
長いので読むのに少々骨が折れますが、なかなか面白いですよ。