オペラ歌手 双浦 環  神が与へし美聲(朝ドラ『エール』)

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ドラマの小道具で使用された雑誌記事の文字起こしです。

朝ドラ『エール』第16回から。
「世界音樂」という雑誌に書かれた「オペラ歌手 双浦 環 神が与へし美聲」の記事がほぼ全部読めそうなので書き起こししてみました。不鮮明な部分も多くあり、また、写し間違いもあるかと思いますので、誤りをご指摘いただければ幸いです。
朝ドラ『エール』第16回から
朝ドラ『エール』第16回から

オペラ歌手 双浦 環
神が与へし美聲

五月に巴里で開催された公演で「唯一無二の聲の持ち主」と紹介されて登場したのが、オペラ歌手双浦環女史だ。かうした彼女の華麗な歌聲が巴里の大きな公會堂に響き渡つた。

双浦環女史は、大正八年に倫敦でデビューを果たし、日本人として初となるプリマドンナを務めた。翌年「蝶々夫人」に出演後、世界の名だたるオペラ公演會を沸かせ、拍手喝采を博した。

「蝶々夫人」公演後、渡米し、波士敦でも蝶々さんを演じた。好意的な批評によつてその後、「蝶々夫人」やマスカーニの「あやめ」を紐育、桑港、市俄古で演ずることができた。

環女史は世界のオペラを志している皆が夢見るメトロポリタン歌劇場に迎へられた最初の日本人歌手だ。

世に歌の名手はあまたゐるが、彼女の美聲は、人のこころを捉へて離さぬ魔力がある

評論家 鈴木与太郎

伊太利のロジーナ・ストルキオ、米利堅が生んだ最初の偉大なオペラ歌手・ゼラルディン・ファラーと並ぶ「世界の三大蝶々夫人歌手」といふ世界的な名聲を得た。

日本人のオペラ歌手が倫敦の有名歌劇場「ロイヤル・オペラ・ハウス」で公演をするとあつて話題をあつめ、英吉利斯王ジョン五世も臨席するなか、環女史は淸澄な聲と變化する蝶々さんの性格を見事に表現して、最大級の拍手を浴び、大成功を收めた。

その後、紐育のメトロポリタン歌劇場で、世界的歌手アダムス・サルーソと「蝶々夫人」に共演した。

歌聲と所作が、評價の對象であるが、幼少期より、日舞を嗜んだ賜物と言える。
指先まで蝶々になつてゐる姿は壓巻である。

プッチーニも認めた絶世の美貌

作曲者プッチーニは、「私の夢を實現してくれた。伊太利はもちろん、世界のプリマドンナが大勢毎晩のように歌いますが、皆私の理想とする蝶々夫人をやつて呉ない。プリマドンナじは、自分の歌だけ聽かせやうとして一向に私の蝶々さんを理解しては呉ない。マダム双浦の蝶々さんは、一幕では15歳の子どもらしい蝶々さん、第二幕第一場では*の愛と夫の歸りを待つ若い妻の愛情を、二場では子どもと別れて自殺する日本人夫人の貞淑の悲劇を、驚歎するばかりにドラマティックに演じていた。私のバタフライが舞臺に現れたよ」と大絶賛した。プッチーニが生み出した多くの作品のヒロインのうち、蝶々夫人は彼の中でも特別な存在なのだらう。

「蝶々夫人(=マダム・バタフライ)」はJ.Lロングの原作。
明治中期の長崎を舞臺に、士族の娘お蝶と米海軍のピンカートン中尉との愛と悲劇を描いた作品だ。二人は戀をし、結婚して子供までまうける。しかし、ピンカートンは歸國することになる。彼はそのうち戻るからといつて單身で米へ歸つてしまう。やがて三年の月日が流れ、やつとピンカートンが長崎にやつて来たが、彼の側にはケイトが付き添つていた。ピンカートンを信じきつていたお蝶はショックを受け、このまま侮辱を受けるよりは、武士の娘として高貴な死を選ばうといつて自刃して果てるといつた内容だ。